村の歴史について
夏吉の主な出来事
古墳時代 6世紀始め 夏吉9号古墳築造
古墳時代 6世紀中頃 夏吉35号古墳築造
古墳時代 6世紀後半 夏吉1号古墳築造
古墳時代 6世紀終末 夏吉21号古墳築造
古墳時代 6世紀終末 夏吉横穴(若八幡宮周辺)古墳築造
延暦年間 806年 最澄、夏吉に八幡宮と六坊を創建 慈光寺、恵光寺、本台寺、竹林寺、当光寺、安明寺
延暦年間 825年 糒 日吉社創建
天慶2年 939年 藤原純友の次男 純年 香春城に居城
永承7年 1052年 伊方村 正連寺開創
永保2年 1075年 宇佐宮弥勅寺喜多院所領に夏焼名田60丁とある。
保元2年 1157年 平清盛、太宰大弐となって臣 越中次郎盛次に鬼ヶ城を築城させる 越中次郎  若八幡宮も造営
文治1年 1185年 若八幡宮貴船社に牛馬安全を祈って「神幸楽」を奉納
観応3年 1351年 太宰府安楽寺に友清、次郎丸両名御霊社を寄進、天満宮勧請
応永8年 1401年 香春城主千手信濃守若八幡宮を再興
明応5年 1496年 真照寺創建
明応 1498年 川宮法光寺創建
永正5年 1509年 鹿島社勧請(恵毛)
永正15年 1519年 香春善龍寺開創(開基 長尾景尚三男 景長)
永禄4年 1561年 大友氏鬼ヶ城を攻む 原田義種奮戦するも落城
慶長5年 1600年 細川氏入国
慶長13年 1608年 若八幡宮「願主 南野左衛門重直」
慶長15年 1610年 方城町 正連寺再興
寛永9年 1632年 小笠原忠真、小倉城主となる。
寛永15年 1638年 小笠原氏により須佐社を岩屋村の産神に彼定
正保1年 1644年 性福寺創建(開基空心は俗名 長野秀信)
慶安3年 1650年 五徳 真行寺再興
慶安8年 1655年 小笠原忠真公、田川を巡視 この時より夏焼村を夏吉村に改称
明暦4年 1658年 因隆寺創建(開基了善 俗名秋吉与右衛門)
延宝5年 1678年 若八幡宮鳥居を夏吉村秋吉五郎左衛門奉納
元禄11年 1698年 大橋の地蔵像建立
享保17年 1732年 夏吉村餓死者67人 糒79人 新所62人
宝暦7年 1757年 南野直右衛門重美 上今任に移る。
安永7年 1779年 若八幡宮社殿再建
享和1年 1801年 輝徳社(祭神 小笠原忠真)
天保年中   若八幡宮石段を片辺組中奉納、世話人友清金助、原田善兵衛
天保年中   貴船社石垣築造、東夏吉村庄屋長野四郎兵衛門、西夏吉村庄屋友清四兵衛、新所村庄屋友清壮市
天保10年 1839年 原田重種(宮司家)宮ノ下にて柿廼舎を開塾、以後30年間続く
明治7年 1874年 原田宮司宅を糒小学校仮教場とする。
明治19年 1886年 糒村と合併し金川村となる。
平成3年 1991年 夏吉公民館新築
平成18年 2006年 台風災害の為、山笠倉庫・山笠の新築


夏吉の歴史や風土を知るうえで一つの資料となる冊子がある。昭和63年3月に夏吉公民館の発行した「古老は語る 昔あったこと聞いたこと」という127頁の生活誌である。明治、大正、昭和初期の生活が、聞き取りによって編集されている。また、夏吉区で郷土史の研究されていた故園田忠昭氏や小方氏による夏吉の歴史についても紹介されている。
夏吉公民館の機関誌「せゝらぎ」に平成11年1月1日第154号に投稿された「夏焼村から夏吉村へ」から紹介する。

夏焼村から夏吉村へ」
 夏吉村とは、そもそも日本書紀の景行記に景行天皇が九州の賊(ハナタリ、ミミタリ、土折、猪折)を討伐に下向したとき、神夏磯姫(若八幡神社産土神)が服属し、早く賊を征服するように訴えた。この神夏磯姫の子孫と云われる夏羽、田油津姫の兄妹は神功皇后が香椎の宮に下向されたとき、偽りの帰順をして皇后を謀殺しようとして逆に見破られて田油津姫は小山田邑で誅殺される。妹を助けようとして出兵した兄、夏羽は途中でこれを聞き引き返し現在の夏吉に逃げ帰るが皇后の部将武振熊に焼き殺されて後、夏羽焼村、夏焼村となったということである。
 その後江戸時代初期に、小倉藩主小笠原忠真公が寛永十年(1634年)三月御廻郡の折、当村若八幡神社に参拝されたがこの時のことを田川郡誌(採銅所出身高橋種之氏著)巻一、若八幡神社の項で次のように記している。「前略、公(小笠原忠真公)御入国御廻郡、寛永十年三月ノ際。当社ニ参拝セラレ旧記上覧ノ後、斯ク由緒正シキ地ニシテ寒村ニ立至リシハ誠ニ燐ムヘキナリ是実ニ悪田多キニ依ル処ナリトテ悪田ヲ手永村々ニ配当シテ永荒新地ノ別村トナリスベシ且ツ百姓共村ノ名ヲ夏焼ト伝フハ不吉ナリ今日ヨリ夏吉ト改ムヘシトノ上意ニ依リ、追々ニ住民加ハリ村落繁昌ニ趣ケリ是故ニ之レヲ祭リテ報恩ノ誠ヲ致スモノナリ云々」とある。これは若八幡神社に相殿として輝徳神としてあるのはこのためである。
 この田川郡誌の中に夏焼村は夏羽及び田油津姫の霊が崇りを成すので最澄が香春宮参籠の折、八幡大神ニ座及び若宮を創造して神夏磯姫と合祀し奉り六ヶ寺(慈光寺、竹林寺、恵光寺、当光寺、本台寺、安明寺)を置き祭祀を司からしめたところ、怨霊が鎮まったと言うことである。延宝六年(1678年)若八幡宮鳥居秋吉五郎左衛門が寄進しているが豊前国田川郡夏吉村とあるので、寛永十年より夏吉村と称するようになったことは明白である。
 その後、明治二十二年糒村と夏吉村が合併したとき、田川郡長の許可の文章と思われるものがあるので紹介する。
「夏吉村、糒村は資力無く独立自治の目的相立難し現今、戸長役場所轄地域にして地形、民情において支障無き為、合併して有力村を構成せんとする請願を適当と認む、夏吉村は元、東夏吉村、西夏吉村、新所村の三村たりしも土地境界判然とならざるにより、明治十六年合併して一村とす。新村名は英彦山川、金辺川吐合の村に村、金川村と撰定す」とあるので、夏吉村がいつの頃から分かれて東夏吉村、西夏吉村、新所村となっていたのが明治十六年合併して夏吉村になったことが分かるのである。
 さていつ頃、三村に分かれたか調べてみると、元和八年(1622年)に夏焼村、夏焼新町と記録があるのでこの頃すでに新所村がわかれていたようである。また延享七年(1778年)若八幡宮立て替えの寄進帳をみると東夏吉村庄屋長尾甚兵衛、西夏吉村庄屋長野徳兵衛とある。長尾甚兵衛は鏡山よりきて竹林寺屋敷(辻隆生宅)に居住していた人で子孫は香春町紫竹原に居住していた長尾正辰氏(元香春町教育長)である。長野氏は糒村の人で香春城四天王筆頭という。
 原田宮司家について田川郡誌は云う。「平清盛の臣、越中次郎兵衛盛次香春岳に築城し平野社は平家累代の尊信神社なるを以て郭内に社殿を営み上京してこれを勧請し近臣原田太郎兵衛亟大蔵種広をして社職たらしむ、其の子孫伝えて代々奉仕せり」とあるので敢て添書したところである。
 従って、小笠原忠真公の命で寛永十年に夏焼村が夏吉村となり新所村(岩屋、糸飛、東町)が分かれ、江戸時代中頃に夏吉村が東夏吉村、西夏吉村に分かれ明治十六年に三村合併して再び夏吉村になったものである。

若八幡神社 若八幡神社
若八幡神社由緒書
祭神    
仁徳天皇 応神天皇 神功皇后
地主神   
神夏磯姫命
輝徳霊神 
小笠原忠真公


 人皇第12代景行天皇の熊襲征伐に際し天皇を周防の佐波(今の防府市)迄出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。“榊の枝に八握剣八咫鏡、八尺瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたてて参向した”と日本書記には記されています。年代は下がって姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を授けんと軍勢を催してかけつける途中で妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て篭もったところを追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐社横の洞窟との説もある)それ以来夏羽焼−夏焼と此の村が呼ばれる事になったのです。後に、夏羽の亡霊の祟りを鎮める為に宇佐より八幡宮が勧請されましたが(光仁年中1173〜4年前)今の大宮司屋敷から現在地に鎮座されたのは慶長13年2月3日(375年前)の事です。現在は仁徳天皇(応神天皇の若宮)を合わせ祭る為に若八幡ととなえますが、これは平清盛が香春岳鬼ケ城の守護神として平家の氏神、仁徳天皇の神霊を京都の平野神社より香春岳の中腹に祭り、その後いかなる理由でか当社に鎮座されたのです。江戸時代小笠原藩祖忠真公巡国の折り当社に参詣され困窮のどん底にあった村民を救うため色々の施政をされると共に、不吉な夏焼の村名を夏吉と、改称されました。  村民は以後の繁栄を感謝し、公の逝去の後若八幡宮の相殿に公の神霊をお祭りして来ましたが、享和元年(182年前)朝廷に願い出て、輝徳霊神の神号と霊璽とを頂いたのです。当社の神紋が、小笠原家の家紋と同じ三階菱であるのは以上の理由によります。
宮司 原田丈路 謹識


若八幡宮鳥居 若八幡宮鳥居
若八幡宮鳥居(北側)
延宝5年
1678年
夏吉村秋吉五郎左衛門奉納
鳥居は神社正面にあったが、道路拡幅に伴い現在の位置に移設された。






稲荷社 稲荷社
神社の階段を登って行くと正面に若八幡神社があり、右側に巨木のイチョウの木がある。その横に朱色の鳥居が多くあり、その鳥居の参道を行くと稲荷社がある。毎年2月に初午祭があり、氏子や鳥居奉納者が集まる。








貴船社 貴船社
高オ神(タカオカミ)
闇オ神(クラオカミ)
象女神(ミズハノメノカミ)






 夏吉のほぼ中央に位置する小高い丘の上に鎮座している。まさに止め雨・祈雨の神にふさわしい所に鎮座している。正確には真照寺屋敷の中に鎮座していたのである。
 この貴船社は、京都市左京区鞍馬貴船町に鎮座する貴船神社の御分霊を祀ったものであるが、いつ頃祀ったものか確かな記録はない。ただ平家が壇ノ浦にて滅亡し、その亡霊が牛馬にたたり悪疫が流行したので、この村の牛馬の安全を祈願して始めたといわれる神幸楽が、若八幡神社と貴船社に奉納されたのが文治年間(約七百年前)であるので、この時すでに貴船神社が京都から勧請されていたと解してよいのではないだろうか。ちなみに田川市伊加利の貴船社が養老三年(719年)に勧請したと記録にあるので、夏吉の貴船神社もこの頃とみてよいのではなかろうか。この貴船神社は農耕の神であることによって、他の地方と同様に常に為政者の側から一方的に勧請された形跡が強いからである。とすれば、今から千二百年以前とみてよい。
 ともあれ、この神は高オ神(タカオカミ)、闇オ神(クラオカミ)、象女神(ミズハニノメノカミ)である。祈雨・止雨の神である。稲作農業にとって、最も重要な条件である。この村に限らず各村々に祀られているが、豊前地方で三百三十社に及んでいる。それは祇園社の二倍である。貴船社のある小倉記念病院一帯は地名になり、香春町勾金駅東の貴船社には神功皇后の御乗馬の蹄の跡が残ったといわれる御馬蹄石がある。
 この貴船の神は、西暦六七八年(飛鳥京)の頃、正遷宮が行なわれ、八一八年(弘仁九年)勅して祈願があり、以後歴朝の奉幣や祈祷はすこぶる多く、都が奈良にあった時は、丹生川上社が祈雨の神であったが、都が平安に遷ると、もっぱら祈雨・止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬を、祈晴には白馬を献じたという。
 昔は、木船・木布弥とも書いたが明治四年に貴船と改められ、この時全国の木布弥社も貴船と統一されたようである。事実、若八幡神社のこ古文書(享保五年四月)一七二十年に木布弥大明神と書いているところがある。
 さて、現在の社殿の建造年月は、石垣の築造は天保年間で石垣の表面に刻まれた字に欠けた部分があって、明確ではないが、時の東夏吉村庄屋、長野四郎衛門(糒村の生れ)西夏吉村庄屋、友清四兵衛、新所村(糸飛・東町・岩屋)庄屋、友清壮市のよである。これは、若八幡神社の相殿に輝徳社を合祀する願書の中に上記庄屋名があり石垣の名と照合して判断したものである。従って、この石垣は百五十年位前に作られたようだが、鉱害で惜しくもコンクリートで固められて、昔の面影はない。社殿もこの頃の造りかも知れない。
 写真のこま犬は、瓦焼製で石州(島根県)で作らせたもので、明治四十三年五月世話人 原田吉蔵、原田茂八郎、川村友吉、堤喜太郎、岡本安太郎、岡本勘十、岡本勇吉各氏の名がある。
石灯篭は昭和十一年三月建立で寄付者、長尾本太郎とある。
鳥居は、明治三十一年十月に時の若連中(今の青年団)によって建立されたものである。
貴船社の神輿は、昔は杉神輿と言い毎年神幸には杉の葉で屋根を葺いていたが、その後屋根を青色で塗った神輿になり、それも古くなって東京の向井繁正氏より現在の神輿を寄附していただいた。
このように、貴船神社は農業と密接に関係した祈雨・止雨の神として、古くから夏吉村の農耕の守護神として崇敬されてきた。それでなくても、夏吉は地形上、雨の少ない所で夕立も隣村まで来ても、この夏吉にはなかなか来ない。幸いこの貴船の神の霊験あらたかにして大きな干ばつにみまわれる事無く来られたことを思う時、貴船神社の大切さがわかる。


白雲山 因隆寺 白雲山 因隆寺
真宗大谷派
白雲山 因隆寺
明暦4年(1658年)創建






平成30年度 法要予定
春季彼岸法要 期日未定 
永代経法要  6月1日(土)〜2日(日)
皆作法要   期日未定
秋季彼岸法要 9月15日(土)〜16日(日)
報恩講法要 11月24日(土)〜26日(月) 



夏吉の長者考
 夏吉の長者については次のような伝説がある。
 関の山どんという長者が現在の三井セメント採石場のそばに何百町歩という水田を持ち、何十人もの奉公人を使っていた。
 この関の山どんが初孫の誕生祝いをすることになった。夏吉村の長者がこれを聞いて祝儀に三十俵の餅をつき、数台の大八車に積んで運ぼうとしたが、夏吉から関の山までの道が無いことに気づき、数百人の作業員を使って大至急で道を作らせた。
 そして、祝儀餅を届けたが関の山の長者は、「いわれのない祝儀は受け取るわけにいきません。私の名がすたります。これはお持ち帰りください。」とつき返した。
 夏吉の長者の方も「一度持って来たものを持って帰るわけにはいかぬ。」といって、屋敷近くの関の山に全部捨ててしまった。餅はそのまま日を経て石となったが、この石は七日七夜焼き続けると、また元の餅になると言われている。
 こういう話は全国各地に数多く流布している長者話の一つであり。豊後の九十町の「朝日長者」伝説に類似しているのでこの伝説の破片ではないかと思われるが、ここに出てくる夏吉の長者とは、いったい誰であるか興味をそそるのである。
 では、歴史上の長者らしき者を考察してみよう。
 観応三年(630年前)南北朝の頃、足利尊氏が幕府を確立した頃、太宰府安楽寺の記録に「夏焼庄内、友清・次郎丸両名、御霊社寄進」とある。友清とは村方の出水屋敷(辻新宅)の住人であり夏吉の庄屋を代々勤めた家柄である。また、明治初年には友清新内氏が高屋村・香春町・夏吉村一帯の大庄屋として権勢を誇っていたものである。ちなみに東条英機元首相夫人勝子の母は、この友清家の出であるが現在は北九州市八幡区に移住している。
 また、次郎丸とは金子昇氏宅(秋里下組)裏の次郎丸屋敷の住人秋吉家のことであり、寛樹氏の曽祖父の代まで住んでいた。慶安八年(353年前)藩主小笠原忠真、田川を巡視するに及んで当地夏吉にも立ち寄り地名が夏焼村とは農業にとって不吉であるので以後、夏吉と改めよと沙汰があり。これ以後夏吉村と呼ぶようになった。この時、次郎丸家も夏の次の稔りの秋をとって秋吉と改めよと、藩主忠真公より沙汰されたのである。
 これから三年後に、この秋吉家が因隆寺を創建、更に、二十年後の延宝五年に若八幡宮の鳥居を秋吉五郎左衛門が奉納している。
 安永七年(233年前)鏡山村より長尾春章が東夏吉村庄屋として竹林寺屋敷(辻隆生氏宅)に移住している。この長尾家は垣武天皇七代鎌倉権五郎慶正の弟四郎景村の一男太郎判官景明、某嫡男次郎景弘九代の孫景宗の次男河内守景尚安辛亥の秋、征西将軍を供奉して、初めて西国に下る。その後、慶安甲寅の秋、九月豊前国田川郡勾金庄を領す。と香春町善龍寺の由緒にある。
 また、江戸末期に筑前直方あたりの子供の端午の節句のお祝いに夏吉村迫より祝儀を贈った記録がある。この迫とは、現高田家の屋敷(迫屋敷)の住人皆川家である。この皆川家は方城町を開いた皆川家と関係があるのではなかろうか。
 次に、南野家であるが、慶長十三年(400年前)若八幡宮を現地に造営した時、大庄屋南野清左衛重直が願主となっている。この南野家は、京都の公卿の流れをくみ太宰府の役人として下向の途中、この田川に御落胤を残し、上野城主となった上野家より出ると伝えられる。その後、夏吉に移り片辺屋敷に住み糒手永(採銅所・香春・柿下・中津原・鏡山・高野・夏吉・糒地区)の大庄屋を務めている。
 今任の南野は今から二百五十年前、南野直右衛門重美という人が分家として転住したものである。幕末から明治にかけて上田川(添田・大任・川崎・赤)の大庄屋として名をはせた南野直七は、またの名を健助といい現在の六本松バス停あたりの長い土手は健助堤として、大任地区を水害から守った南野直七一代の大事業であり大偉業であると言われている。
 このようにみてくると、友清・次郎丸・南野・長尾・皆川の各家が歴史上名が出てくるが、この中の誰が関の山どんに祝儀を贈った夏吉の長者は甚だ疑問である。というのは、関の山どんの伝説そのものが作り話であるので夏吉の長者なるものを追求するのは愚かな事かもしれない。

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